山松ゆうきちのボロ小屋 <立ちしょんべん>

ある高名な大先生


ある高名な大先生   3

二十歳前後だっただろうか、深夜映画が始まった頃、ガラガラの映画館に一人で行った。

何となく不気味で怖かったが、何事も無く映画を見る事が出来た。

競輪場にも始めは一人で行った。

後楽園競輪は、競馬と違い六枠しかなく、一レースに十人が走り、3から6の枠には二人ずつ入っていて、3枠の3番4番、6枠の9番10番は何処を走っているのか、目がついて行けず、何番と何番がゴールしたのか瞬時には解らないので、枠に一人しか居ない、1と2の枠、1−2、2−1。あるいは1と2をからめた車券を買った記憶があります。

囲碁も本と、一番安い折りたたみの碁盤を買って、ルールを覚えて自分で何度か打ち、それから碁会所へ行きました。

いくら本を見ながら並べ、一人で打っても、実戦とはえらい違いで、苦も無くひねられながら少しずつ慣れていったのでした。

23歳の時、漫画を引退して、競輪選手になろうと思い、鳥取の実家に帰りました。

尻が痛くて、特訓は一日で終わり挫折してしまった。

医者に行くと、

「まだ手術するほど悪化してはいない。もう少し悪くなってから来なさい。」

座るのも痛いのに、もう自転車には乗れませんでした。

田舎ですから、車が無いと何かと不便です。

「教習所に行かないでも、車の免許は取れるけ。」

試験は半年に一回、一人か二人しか合格しないのでかなりきびしい。

と免許を持つアシスタントは言った。

俺は割りと運動神経や勘が良いと思っていたので、

中古屋に行ってカローラを購入し、そのまま河原の空き地で30分ぐらい練習しただろうか。

「ブレーキ、ハンドル、ギア、アクセル、クラッチ。たったのこれだけ?。思っていた以上に簡単だがな。」

早速、道路に出て、実地訓練しようと思ったのですが、土手に上がった所で、前から道幅いっぱいの大きなトラックが来たのです、

「ブレーキ、ブレーキ、ブレーキ。」

と怒鳴られても、瞬時には何処がブレーキか解らず、車輪を土手に落として難を逃れたのでした。

あの時は本当に危なかった。

実は、学校へ通って習うよりも、自分でやったほうが近道である事が多い。

車の運転も、学校へ行って毎日一時間練習するよりも、自分で二時間でも、三時間でも練習した方が早いと思っていましたが、

車に何の愛着も無く、運転が好きでもない俺には、毎日の運転が億劫でたまらない。

ですから、町へ行く等の用がないと中々に乗らないのでした。

街中では、目的地は左前方に見えるのに、左折する事が出来なくて、汗をびっしょりかきながら、右に右に曲がってえらい大回りをした事もあります。

村に入る道を近回りしようと思ったのですが、V字カーブが曲がれなくて、前輪二つが崖から飛び出してしまい、動くと落ちそうなので、運転席から大声を出して、村の何人かで、車を引き上げてもらった事もありました。

雪の降る日は、ブレーキをかけてはいけないと言われていたのに、町の入口で急ブレーキをかけ、ハンドルを取られて横滑りして回った時も、えらく危なかった。

国道の広い道で、バックしてターンしようと思っていたのに、田んぼに突っ込んでしまった。

車を降りて、タイヤの跡を見ると、道の端から真っ直ぐ田んぼに突っ込んでいる跡が残っており、余りの不手際に笑い出して、いつまでも笑いが止まらなかった記憶もあります。

「お前は漫画家だから、無免許で捕まったらニュースになるから、運転はするな。」

親や知人から注意を受けたのですが、スピード違反さえしなければ、見つかる事はないと高をくくっていました。

ある日、たまたま運転していなかったから良かったのですが、全ての車を止めて免許の掲示をしていた事がありました。

「良かったよ運転してなくて、これじゃ安全運転していても捕まる事はあるな。」

そう思いながらも、町に行く時等、時々に車に乗っていたのです。

車を買ってから2ヶ月か、三ヵ月経ったころでしょうか、

又東京に出て、漫画を描こうと言うことになり、中古のカローラで、無免許のまま東京へ向かったのです。

高速道路はもったいないので、国道を走って岡山に出て、道を間違えないように大阪を回り東京へ向かいました。

もう夕方で、道はだんだんに細くなり、ついに車一台がやっと通れる山の中に入ってしまったのでした。

道を聞くと、奈良県だと言われてビックリしました。

大阪から見て、奈良と京都は反対側になる。

どうやったらこういう間違いが起こるのか、我ながら不思議でした。

しょうがないので、高速を見つけて乗り東京へ向かったのです。

夜明け前、町田で軽く食事をして、車に乗ったのですが調子がおかしい、スピードが出ない。

坂道で止まってしまい、全く操作が効かなくなりバックしはじめたのでございます。

初心者は半クラで走るから、クラッチがスリへって無くなったと言う事でしたが、

あの時は驚きました。

ある高名な大先生がいらっしゃいます。

高名と言うのは、高と言う名の先生なのです。

5万円だか、8万円だかの将棋版を買い、棋士に来て貰い、教えを乞うと言うのでビックリしました。

「将棋を知らない人が、いきなりこんな良い将棋盤を買って、プロに教えてもらうのですか?」

「これから習うんだよ。最初にいい物を買って、いい先生に教えてもらえば強くなるのも早いだろ。」

「くっ、くっ、くくっ、あははは、今から強くなるって言っても知れていますよ、アマチュアは遊びですよ」

そう言って、多いに笑ってあげた記憶があります。

「将棋は一手間違えて、王様が取られると終わりになるけど、碁はミスしてもいい手になる事がありますから、碁のほうが入りやすいんじゃないですか」

大先生に星目(要点九箇所に黒石を置く)に、風鈴(星目の角に石を置く)をつけて、更に辺の星目の間にも石を置かせて、

「目を二つ作らせないで囲うと、全部とれるんですよ。」

「あははは、俺を馬鹿にしてないか。すでに真っ黒じゃないか」

そうやって、世紀の大決戦は始まったのですが、

「どうも騙されているとしか思えない。あんなに石を置いて取られるのは、どう考えてもおかしい」

途中からブツブツ文句を言い始めた。

「この大きな黒い石、ここに白石を置くと、ぜ〜んぶ囲われていると思いませんか。囲われると取られますけど、取ってもよろしゅうございますか」

文句を言わせないように、念を入れて確かめてから、ゴソッと黒い石を上げるのです。

「これは囲碁じゃないだろ。俺が知らないと思って、やりたい放題好きにやっているんだろう」

「何てうたぐりぶかい事をおっしゃるのですか、始めから強い人などいませんよ。みんな少しずつ強くなっていくんです」

「こんな思いをするくらいなら、強くならんでもいい。お前は常々どっかおかしいと思っていたが、こんな物を覚えてたら頭がおかしくなるだけだ」

そう言って、碁盤を片付けてお仕舞いになりました。

それから将棋を教えてもらったとか、指したと言う話は聞かなかったので、この事があってから、将棋の方も止めておしまいになったのかも知れません。

高先生は、生まれた子供のために、プリントごっこみたいな、チャッチー英会話のテープを三十万だったか、五十万出して購入し、

一枚カードを挿入すると、

「ウインドー」

「ジスイズ、ア、ペン」

なるものを、訪れる度に聞かせて、

「日本人の英語教育は駄目だ。中学の教師は英語が喋れないんだよ。通用しない英語を教えてどうするんだ。山ちゃん勉強して行く?発音が綺麗になって、アメリカ人に通用する英語が喋れるようになるよ」

「こう見えても、俺はけっこう忙しいんですよ、ごろんと横になって、タバコを吸ってあくびをしながらテレビを見るくらい忙しくて、ありがたい英語のテープを聞く暇は無いのです。誠に残念でならんのですが、今は忙し過ぎるので暇になったらお願いします」

俺がいかに暇が無いかを訴えて断ったのでした。

それから三十年は経ったろうか。

仕事も金も無いので、未開なる漫画の国インドへ行けば、何とかなるかもしれないと思い、

ヒンディー語の本を買って来て、読み書きのお勉強を始めたのでございますが、何百回繰り返して書いても全く覚えないので、

韓国語入門なる本を出されて、英語も韓国語もペラペラとおっしゃる、高名な高先生に、

「記憶するコツみたいなのはありますか」

とお聞きした事がありました。

「無い。馬鹿はいくらやってもしょうがない。何故なら馬鹿なんだから、馬鹿は一生直らんぞ〜」

とキツーイお言葉を頂いたのでございます。

「韓国語は何時ごろから覚えたのです。独学ですよね」

「馬鹿、こんな物一人でやれるか。韓国語学校に通ったんだよ」

何事も一人でやる俺とは、対極にいらっしゃる先生なのでございます。

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