山松ゆうきちのボロ小屋 <立ちしょんべん>

山松ゆうきち 

老い


      老い

自宅から知人宅に行こうと思い、新青梅街道を箱根ヶ崎から河辺方面に自転車を飛ばした。

十字路の交差点の手前で信号待ちをしていたら、

横断歩道が交叉する内側の車道を、ゆっくり歩いているオジサンが居た。

危ねえな、目が見えないのかな?と思ったが、オジサンの目はしっかりと開いている。

俺の前を横切り、尚も車道を歩む。

いくらなんでも危ねえやな。

自転車を降りて、オジサンのそばに行って注意した。

「車道を歩くのは危ないですよ」

オジサンは、上を向いてから俺の方を向く、

右目は白く目の玉が無かった。

ああ、左目はまともそうに見えるが、見えないくらいに悪いのだな、と思い、

「どこに行くんですか」

と聞いた。

「銀行に行くんです、近くにありますか?」

周囲を見渡しても銀行はない。

「無いですね」

「セブンイレブンの近くです、セブンイレブンはありませんか?」

「無いですねえ、あ、交差点の向こう側にありますけど、遠いですよ」

「それです、向こう側ですか」

横断歩道を渡って、もう一回右に横断歩道を渡った先にセブンイレブンはあった。

「じゃ、一緒に行きましょうか、手を貸して下さい」

「そうですか、すみません」

見た目は、30歳から40歳ぐらいだろうか。

背は俺より少し高いぐらいだが、ゴツゴツした手はかなり大きい。

そっと握ると、ガッシリした手でギュッと握り返してきた。

「うわっ、強ええ、何をやっているのか、持っている力がえらく違う」

そう強く握られたわけでは無いが、鉄のように固く、何か力仕事をしているんだなと思い、感触で自分の非力さが解り愕然とした。

セブンイレブンの前で、

「ありがとうございます」

オジサンは頭を下げる。

「えっ、ここでいいの?」

銀行と言うのは、ATМの事だったようだ。

インドのデリーで夕方だった。

部屋の近くの路地に、17,8歳から22,3歳くらいの若者が、5,6人たむろしていて、

「ナマステ」

挨拶をして路地には入った。

背後から何かをぶつけられ、息が止まるくらいに痛くてしばらく動けない。

゛後ろから石をぶつけられた”

信じられない行動に唖然とする。

若者たちに近づくと、俺ではないこいつだと言った仕草で、薄笑いをしながら傍にいる若者を互いに指さしあって、悪びれた様子はない。

「何なんだ、これは」

おだやかな俺だが、あまりに痛かったので脳天は爆発して、、エベレストが噴火するほどに怒っていた。

インドを訪れる他国の人間に、いかに不満があろうと、

背後から石をぶつける等、断じて許せる行為ではな〜〜〜い。

誰がぶつけたのか解らないが、1人に近づき、至近距離から必殺の右フックを力いっぱいにかましたのです。

一瞬国際問題になるのかな、ボコボコにされるな”と頭をよぎったが、しょうがない事だと思い躊躇なくひるむ事なく、渾身の一撃でした。

若者はスウェーしてのけ反りかわす。

「えっ、空振り」

人を殴った事はないが、避けられるとは思ってもいなかった。

若者は、転びそうになりながらも、4,5メートル先でこっちを向き、尚もエヘラエヘラ笑い、

俺ではない、“こいつだ”と隣に居る若者を指さす。

指さされた若者は、また別の若者を指さす。

誰が石をぶつけたのかは問題ではない、石をぶつけた事が問題なのだが、

その俊敏さに、追いかけても追いつける気がしないし、

2打目のパンチを打っても当たるとは思えなかった。

インドは何事か起こると、直ぐに周りから大勢が寄って来る。

バタバタとオジサンたちが寄って来て、ガル(部屋)に帰れと首をしゃくって頭を傾ける。

いまいましいと思いながらも、怒りのはけ口は無く、スゴスゴと部屋に戻るしかないのでした。

途中、もう一度ぶつけられた石を見ると、破れたゴム風船が転がっていた。

「まさか風船?あんなに固く強力になるの?」

それは石ではなく風船だった。

パンパンに水を入れた、ゴムの風船をぶつけられたのです。

明日は、インドの大きなお祭りホーリー祭で、誰かれなく色のついた水をかけられるから、表には出ないようにと聞かされていた。

子供たちはゴムの中に水を入れて、パンパンに固くなった風船を俺に見せて持たせ、自慢そうに、これをぶつけるのだと言い、

ユキチは危ないから表には出るな、と言っていたが、

色を溶かした水入りの風船ぐらいどうって事はない、それぐらいにしか思っていなかった。

「キャー、ユキチ、ドウシタノ」

シャワーを浴びようと裸になった俺を見て、下宿先の奥さんスマンさんが奇声を発したので、鏡を見ると、背中の真ん中が赤くなっていた。

俺は痛かった事に怒ったが、至近距離からのパンチをかわされた事の方がショックだった。

殴り合いの喧嘩はやった事はないが、まさかあれがかわされるとは思えないくらいの至近距離で、絶対に外すとは思えないパンチをかわされた。

いつの間にか、若い人と俊敏さと言うか、持っているスピードが違う歳になったのだと思いがっかりしたのです。

「どこかで、オートリクシャーの玩具を見かけたのですが、どこで売っているか解りますか」

「カノートプレィースで売ってますよ」

「え?何十回も行っているけど、見かけませんでしたよ」

「ありますよ」

で、石川さんも買い物があると言うので、ついて行く事にした。

インド一と言われる繁華街も、昼は閑散としている。

なるほど、気が付かなかっただけで、ミニオートは出店で売っていた。

「きゃーっ」

突然、石川さんが悲鳴を上げる。

何で悲鳴を上げたか解らないが、とっさに、そばに居るインド人の手首を掴んだ。

1メートル80以上はありそうでかなりでかい男だ。

髭を生やした30歳くらいの男は、掴まれた手首をねじって引き寄せ、俺が掴んだ手が無いかのように難なく外す。

「えっ、そんなに簡単に外れるの」

男の力強さに唖然とした。

いや、自分の力の無さに驚いた。

「なに、何、何があったの」

「痴漢、痴漢ですよ」

「え?、痴漢、ですか」

インドに来る直前の事ですが、

「日本には痴漢が多すぎる」

「外国にはいないの?」

「いませんよ、アメリカなんか、痴漢するならやっちゃうよ」

「そうだな、まどろっこしいものな」

とテレビでやっていた。

だから外国には痴漢がいない、いてもごく少ないのだなと思っていた。

それに、インドの痴漢を捕まえてどうするのだ。

果たして痴漢は犯罪なのだろうか?

警察は笑うかも知れない。

一瞬、どうしていいかいいのかわからなくて、 再度捕まえる事を躊躇した。

男は、5,6メートル先のビルの角を曲がって逃げたが、

追いかけても、大きいし力も強くて、足も速そうで捕まりそうにない。

「インドにも痴漢はいるんですか」

「いますよ、いっぱいいますよ」

俺は痴漢を逃がした事よりも、掴んだ腕を簡単に外された、自分の非力さに驚き、

「何なんだ、この力の無さは」

ガッカリと落胆したのでした。

元々、力はそう強い方ではない。

中学生の頃、腕相撲をしても、弱くはないが強くもなかった。

握力が無かった。

懸垂は、4,5回ぐらいできただろうか。

部にも入らず、学校が終わればそそくさと帰宅部をしていたのですが、

試合に出てくらないかと、相撲部が言って来た。

市の大会で2位になり、県大会にも出たが、

団体戦は1回戦負け。

トーナメントは、2人に勝って3人目に負けた。

中学生とはいえ、訓練された人の相撲は、脇を固く締め、腕が入らないからまわしが取れない、しかも下から突き上げて来る。

ブラブラしている俺が、とても勝てる相手ではない。

県の大会には、他に砲丸投げと、400メートルリレーにも出た。

足は短かく力はないが、多分スポーツをやるバランスがいいのだろうと思っていた。

しかし、両手でつかんだ腕を、苦も無く外されるとは、

何と言う腑甲斐の無さだ、情けない。

歳のせいだろうか。

止める事の出来ない大魔神の歩みのように、しとしとと老いが寄って来ている。

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